• 【JAEのSTORY#2】どんな課題・困難もたどり着くのはいつも「教育」だった
  • 2022.02.15

    #インターンシップ #ドリカムスクール #スタッフインタビュー

    共同代表・塩見優子インタビュー 

    2001年に東大阪でスタートした子ども向けの起業家教育(アントレプレナーシップ)教室。これがNPO法人JAEのはじまりです。その後、小・中・高校でのキャリア教育プログラム「ドリカムスクール」や、大学生を対象とした長期実践型インターンシップ「アントレターン」などを開発・実践。数多くの子ども・若者が未来を描くお手伝いをしてきました。2021年には創業から20年を迎えました。今回は現在共同代表である塩見優子のインタビューです。

    幼少期から海外で生活し、人種差別や紛争解決のNGO職員などさまざまな経験を重ねてきた塩見優子。どの活動においてもたどり着くのが「教育」だったといいます。JAEでは、小・中学生のキャリア教育「ドリカムスクール」を担当。コロナ禍の2020年6月に共同代表に就任しました。

    最初にJAEと関わったきっかけを教えてください

    2011年にJAEが大阪府と連携し、キャリア教育推進サポーター事業を実施する中でサポーターを7名募集していたんです。キャリア教育を軸に小中学校が連携していくためのモデル校を作っていく、のが目的でした。そのプロジェクトに応募し泉南市の中学校に派遣されました。その頃ちょうど転職活動中で、6ヶ月という期間限定のプロジェクトだったので、転職活動の実績にもなる、と思い参加したんです。気がつけばプロジェクト終了後もそのまま関わり続け、10年になります。

     

    ―経歴が海外を含め非常に多彩です

    英語教員だった父の大学院留学のため家族で渡英したのが8歳のとき。現地の小学校に通ってたんですが、地方都市だったこともあり、さまざまな人種差別を体験しました。アジア人は嫌われている、ということを子どもながらに感じていましたね。そんな中、6年生のときにはじめて信頼できる大人に出会ったんです。担任の先生だったんですけど、差別をしない大人がいるんだ、とはじめて感じられた人で。でも、ある日その先生がすごく差別的な発言をしてクラスを盛り上げたんですよね。唯一信頼していた先生だったのですごくショックで。でも同時に「だから差別がなくならないんだ」とすごく納得したんです。先生が普通に差別していて、子どもたちがそれをそのまま受け継いでいる。だから教育から、先生から変わらないと差別はなくならない、と。そのときにいつか先生になって差別のない教室を作る、と先生をめざすようになりました。『教育』に思いが至った最初の経験ですね。

    ―その後、中学生の時に日本に帰国されたんですね

    初日から怒られっぱなしでした(笑)。時計をつけていって注意され、寒いからとコートを着て行って怒られて。漢字もほとんど読めなかったので、ノートを写すこともできないし。定期テストも本当に0点とかだったので、就職も頭をよぎりました。ただ、日本語も話せない今のままでは仕事は無理、高校は卒業しよう、と決意。そこから勉強をすごくがんばりました。学年で一番勉強ができる子のところへ行って、勉強教えて、って。それで私立の高校へ進学したんです。

    ―先生になって差別のない教室を作りたい、という思いで?

    はい。でも高校の先生にイギリスでの経験から先生になりたいと伝えると「そんな経験と思いがあるなら、教師ではなく世界に出ていけ。教師はオレがやってやる」って言われて。そこでアメリカの大学へ進学し、リベラルアーツを専攻。サブ専攻が心理学で、人種差別について研究しました。在学中は、視野を広げたい、人種差別をなくしたい、平和、というキーワードでいろんな活動をしました。宗教間対話クラブを立ち上げたりも。在学中に同時多発テロも起こってその時も宗教学の先生に、何かできることはないかと相談しました。先生からは宗教という価値観のど真ん中のところは対話しかないんだ、と言われました。「対話を通じて人をつなぐ」ことを学びましたし、その視点は今の業務にもすごく生きています。とにかくいろんな活動をやってみたんですけど、やっぱり毎回たどり着くのが「教育」だったんですね。人の価値観の土台を作っている、と。

    ―その後コスタリカの国連平和大学へ進学しています

    そこでも引き続き、平和学を突き詰めていくんですけど、平和といっても結局一人ひとりの行動が大事なんだ、と確信しました。国連大学には国連で何十年も活動している人が多くいて、そんな人たちの中にも人種差別があったんですよね。世界中で平和に貢献する活動をしている人たちなのに、です。その課題を修士論文のテーマにし、国連大学がめざしている教育にするためには「こんなふうに変えたらどうですか」と提案して帰国しました。

    ―その後インドネシアで紛争解決のために活動するNGOでも活動

    帰国後は1年間通訳としてピースボートに乗り、その後ご縁があって三重県の中学校の特別支援学級で働きました。でも、やっぱり海外のNGOで働きたい、という思いがあったんですね。紛争などの現場で本当に辛い思いをしている人たちのことをわかっていない、というコンプレックスというか。紛争解決に関わるNGOで、人権活動家や平和活動家たちのサポートをしていました。活動家の誘拐や殺害が実際に起こっていて、社会のために命懸けで戦っている人たちを目の当たりにして。同時に社会の黒い部分を思い知らされ、怒りと自分の無力さを痛感する中、情勢の悪化によりプロジェクトが閉鎖。私自身も、もう少し物事を変えられる力をつけたい、と一時帰国しました。そこで転職活動をしながら、出会ったのが先述した大阪府とJAEの期間限定のプログラムだったんです。


    ▲イギリスNGOのインドネシア支部勤務だった頃(右端)

    ―今も続く泉南市とのドリカムスクールプロジェクト(以下ドリカム)ですね

    私の中では、日本の教育ってすごく恵まれているイメージだったんですね。でも貧困だけでなく、同和問題や海外にルーツを持っている子たち、その他いろんな課題に直面。日本の子どもたちの中にもこんなにしんどい状況がある、ということが衝撃で。インドネシアは貧困がパッと見てわかるけど、日本の貧困やしんどさって見えづらかっただけなんだって。そこで半年でできることは全部やろうと必死にもがきました。大変でしたけどやっといろんなことが動き始めた時に任期が終了したんです。現場でいろんな思い・課題を聞いてきて、少し光が見えてきたところだったので、教育でどこまで課題解決できるのか、自分でも試してどうなっていくのかを見たいと強く思ったんです。土台に自分が入り込めるのかしっかりやってみたい、と。それができる状態に変化した所だったし、現場にもニーズがあった。そこから今年で10年目です。

    ―学校と協働でキャリア教育を進めていったんですね

    ドリカムを初めて導入した時に中学校の先生から「一石を投じましたね」と言われたことが印象に残っています。外部の人が入りづらい現場に、JAEが入ったことでいろんな人が先生方と共に教育に携わるきっかけができました。地域の企業が連携することで、学校内だけではなく、教育で地域の人をつなぐ、子どもたちの今と将来をつなぐ、キャリア教育はそういった手段としてとても有効だと実感しています。

    ―長年継続していることでの変化は?

    はじめは4中学校区の中の1つの中学校区だけでの実施で。その頃は先生の異動が課題だったんですよね。でも今では4中学校区で導入されるようになり、先生の異動が逆にプラスになっていると感じることもあります。はじめて取り組む学校でも、すでに経験のある先生がおられてすぐに動ける状態ができています。また中学校でしんどい状況だった生徒さんが、大人になって社員として関わってくれたりっていうことも。地域に密着している企業さんと連携しているからこそ、ですね。また、保育所・幼稚園から中学校の先生たちと連携しているのですが、先生方にとっても教育を振り返る機会になったという声をいただきます。


    ▲企業と協働して実施しているドリカムスクールの様子(泉南市の小学校)

    ―ドリカムで印象的だった事例は?

    小学校でいつも元気で突拍子もないことをいう児童さんがいました。いわゆる『問題児』のレッテルを貼られていて。答えがない問いに取り組んでいくのがドリカムなんですけど、あるとき絵を使ってブレストをしていたら、その子が「一部を隠したら英語が見える」って言ったんです。みんな「そんなわけない」って否定の嵐だったんですけど、やってみたら本当に英語が見えて。「すごい!」となったそのときの教室の空気に、本当に鳥肌がたちました。その子が活躍した瞬間、子どもたち・先生の受け止めが変わった瞬間でした。

    ―学級崩壊しているクラスでも実践されたとか

    毛布をかぶって聞くのを拒否している子もいましたし、大人を信じていないような子どももいました。こちらの合図にピースをしてね、と言っても全員が全く反応してくれず「これが学級崩壊か…」と思いつつ、毎回一生懸命でしたね。いろんな子の変化を覚えつつ、気づいたときには声かけ、を徹底。すると最終日には全員がピースして待ってくれてる状態になったんですよね。あきらめたらあかんな、自分が成長させてもらってるな、って痛感しました。


    他にも中学1年生を対象に「将来を描こう」という授業をした時に何も目標を書けない子がいて。「アイス食べたいでもいいよ。パッと思い浮かぶことでいいよ」って伝えたら「ニートになりたい」という返事があったんです。そこでさらに「いいやん!どんなニートになりたいの?」と聞いていったんです。すると最終的には、ファッションに興味があってパソコン使って自宅から海外の人にネットで服を売りたい、という言葉が出てきました。これは子どもとの接し方をその子から学んだ瞬間でした。「ニート」って聞くと、反応に困りがちなんですけど、そもそもどんなイメージで子どもが書いているのか、寄り添ってみると見えてくることがあるんですね。

    ―2020年6月に共同代表に就任しました

    JAEって本当に現場に寄り添いながら活動してるんです。私自身もJAEを通じていろんな方と出会って、いろんな変化を生み出してきているのにそれがなかなか発信できていなかったことにもどかしさを感じていたんです。もっとできること、つながれる方がいるんじゃないか、ということと、もっと動きたい、という想いが強くあって。

    また、対処的な支援というより、先を見据えて動かないと本質的な支援に辿りつけないまま終わってしまうことも痛感しています。プロジェクトだけを見てたなら、半年で辞められたのに(笑)、本質的なところを考えてしまうJAEの姿勢にずっとやりがいを持てているんだと思います。

    ―今後の目標などは?

    改めていろんな人たちを巻き込んでそれぞれの地域の支えになれたらいいなと思っています。より良い社会のために教育現場の課題を人と人が協働しながら転換する。関わる企業やさまざまな大人、人にとっても気づきのきっかけを、両方がウィンウィンになるように一緒に伴走していきたいです。

    聞き手:林(JAE広報)

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